歴史ある建築を可能な限りそのままに・・・「ハイカラ料亭づくり」の夢、実現 その昔、塩屋町界隅は、米、塩干物の卸相場を中心とした当時熊本隋一の活気満ち溢れた町でした。「ああんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ・・・」でおなじみの船場川の発着船場の沿いに、舟の従来を垣間見乍ら、人々は右往左往としていたものでした。 当亭、初代亭主伊十郎も種々の相場に取り組みつつ、寸暇の一時を和文化の嗜みに身をついやし、ゆかしさの鍛錬を手習っておりましたようです。 その一角、旧代藩主、細川様の御別邸に隣接したお茶屋さんも伊十郎のおなじみの処でした。そのお茶屋さんを何かの御縁で引き継いだのが「喜楽」そのものの始まりとか・・。いつの日か隣接の細川家御別邸を譲り受けさせて頂くに至ったようでございます。 その後も様々な変革の歴史の中で、幸い戦災にも免れ、今日までのその古き姿をとどめるに至っております。 三代目女将 菊代が生前よく申しておりました「料亭とはねぇ、粋のある日本文化を平常心をもって大切にしていく商いですよ。お客様と共に、和を智る心をもってご奉仕する豊かな業なのです。それを特定階級の方に限らず、思いを持っていらっしゃる全ての方々に提案できる「料亭づくり」をつくりつづけて参りたいものですねぇ・・・」と。 手前事ですが、私どもはいたく感銘いたしました。 これからも、方々の「喜び」「楽しみ」の出会いと、そしてふれあいを、「ハイカラ」に調和するそのスペースを提供して参りたいと存じます。 |